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■ 1853年3月30日

オランダ南部のフロート・ズンデルト村にフィンセント誕生!

オランダ地図

「長男」「二男」両方の情報がでているが、実際には一年前の同じ日、1852年3月30日に兄が生まれて間もなく亡くなっている為、二男としての出生である。兄の名前も同じくフィンセントであった。牧師の父はテオドルス、母はアンナ。海外では、同じ名前が一族内で頻繁に使われることがあるよう。ちなみにゴッホ家ではフィンセントもテオドルスもかぶりがいる。

■ 1857年( 4歳)

5月1日、生涯の支援者、弟テオ誕生!

テオの肖像

唯一の理解者と言って過言ではない。フィンセント27歳の画家宣言依頼、その生涯にわたり金銭面だけでなく全般的に支援を続けた。(※テオ=テオドルス 弟は父と同名であった)本当に「兄に捧げる人生」であった。テオが高収入であったとはいえ、晩年は、週50フラン程度※ をコンスタントに仕送りし続け、他にもいろいろ頼まれる。何かあると駆けつける、、、兄思いというのか、献身的というのか、すごい弟である。 ※現在の日本の価値で50,000円程度

■ 1869年(16歳)

幸運な縁故入社!国際的美術商グーピル商会に入社

地元で小学校の学習を終えると、生地ズンデルトから約20キロ離れたゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学した。高校は、ティルブルフにあるプロテスタントの学校に進学するが、1868年3月に中退した。1869年7月、画商として成功し、既に引退していた父方の伯父フィンセントの紹介でグーピル商会に就職できることになった。

■ 1872年(19歳)

筆まめフィンセント、テオとの文通開始!生涯続く

フィンセントは、手紙マニアで約900通ほどが現存するといわれている。そのうち600通以上がテオとのやりとりのもの。仕送りの依頼と作品の構想、進捗、仕送りのお礼など、晩年は2~3日に1通のペースほどで書いていると思われる。

■ 1873年(20歳)

栄転!働きぶり高評価、ロンドン支店に!が、、、

下宿先の家主の娘ウージェニー・ロワイエに恋をするが、彼女にはすでに婚約者がいて大失恋。精神的に強い衝撃を受け、仕事にも身が入らなくなっていく。しだいに宗教に傾倒していく。

■ 1874年(21歳)

手痛い失恋!会社の計らいでパリ本店に転勤

以降、失恋が多い人生のようで都度心を痛めたであろうフィンセント。ウージェニーに恋をし、そして、にべもなく拒絶されるまでの約一年間が最も希望に満ち溢れた時代であったのかもしれない。フィンセントの変化を知った会社は、パリに転勤させる。

■ 1876年(23歳)

まさかの解雇!

パリには移ったものの失恋をきっかけに宗教にはまり、聖書に費やす時間が多くなっていた。彼の厄介な一面が、、、次第に顧客への対応も悪くなり、無断欠勤?ついには上司に対する逆切れまで! あえなくクビを申告されてしまう!

■ 1877年(24歳)

宗教への傾倒

前年の解雇後、一時親元(エッテン)に戻るが、すぐさま渡英し補助教員(フランス語/ドイツ語)の職を得る。しかし年末には、また親元に戻り、更にはアムステルダムに移り、大学で神学を学ぶための受験勉強を始める、、、が、すぐさま挫折。

■ 1878年(25歳)

さらなる宗教への傾倒 ①

神学の勉強はギリシャ語で挫折し、今度はブリュッセル近郊にある、伝道師養成学校に通うことになる。しかし、資格を得ることは出来ず、ベルギー炭鉱地帯ボリナージュ地方で、臨時説教師として活動する。

■ 1879年(26歳)

さらなる宗教への傾倒 ②

神学の勉強はギリシャ語で挫折し、今度はブリュッセル近郊にある、伝道師養成学校に通うことになる。しかし、資格を得ることは出来ず、ベルギー炭鉱地帯ボリナージュ地方で、臨時説教師として活動する。

■ 1880年(27歳)

ついに転機!? 人生の再出発

伝道活動の行き過ぎ行為により更なる挫折をし、さすがに落ちたフィンセント。テオでさえ約1年間ほど連絡をとっていなかった。ようやく気を取り直したフィンセントは、テオに手紙で「画家」として生きていくことを告げる。これは伝導師として人を救うことは出来なかったが、絵画を通じて人を救いたいという現実的な姿勢であり、自分への落としどころだったのだろうか?いずれにせよ、ようやく画家への道を邁進することになる。この年からテオの経済的な援助も続くことになる。

■ 1881年(28歳)

「ようやく見えた画家の道」と「家族を巻き込む無謀な恋」

帽子のある静物画

前年末よりブリュッセル王立美術アカデミーで素描の授業をうけるが経済的な理由から4月に父の赴任先エッテンに戻る。当時、未亡人になったばかりの従姉ケー・フォス・ストリッケルが父の気遣いでアムステルダムから休暇に来ていた。幼子がいる7歳年上の従姉、思わず悪い癖でたちまち恋におちる。ケーを幸せにしたいと恐るべき猛アタック!しかし頑なに拒み実家に逃げ帰ったケー。それを追いかけケーの父親に面会を熱望するも門前払いにあう。このことも含めフィンセントとその父の不和は続く。口論の末、12月にハーグへ引っ越すことに。絵は、違う従姉の夫であり有名なハーグ派の画家アントン・マウフェに教わり、初めて油彩画として静物画を数点制作した。左は、その一枚の「麦わら帽子のある静物画」(1881年11‐12月)である。一方、テオはグーピル商会パリ本店の責任者となる。

■ 1882年(29歳)

師事したアントン・マウフェとの関係

花咲く桃の木

昨年末の油彩に手応えを感じたフィンセントは、テオへの手紙でその喜びを伝えている。マウフェもなかなかに誉めてくれたようである。そしてハーグに移り住みアトリエを借り、モデルを用いた素描を繰り返していた。その中にシーン・ホールニクという元娼婦のモデルがいた。やがて同棲するようになったシーンには身辺的にさまざまな事情があった。フィンセントの家族からは猛反対され、またマウフェとの関係にも影を落した。諸事情によりマウフェとは決別するこになるが、長年フィンセントは彼への敬意を忘れていなかった。1888年2月マウフェが急死、そのことを知ったフィンセントは左の「花咲く桃の木」(1880年3月30日)を制作。左下に「マウフェへの贈り物」と書かれている。

■ 1883年(30歳)

ふたたび絵画修行に専念

雑草を燃やす農民

テオにも強く説得され、フィンセントはシーンとの関係を断ち、ハーグを去った。3ヶ月間ドレンテに移り、孤独に絵に没頭した。その後、ニューネンの両親の元にもどった。左は、ドレンテ時代に描いた「雑草を燃やす農民」

■ 1884年(31歳)

ニューネン(オランダ)に専用アトリエを借りる

織機と織工

父の赴任先であるニューネンの牧師館、そこに隣接する洗濯小屋をアトリエとして借り、絵画修行に専念した。左は、この頃、非常に興味を抱いた「織機と織工」シリーズの一枚。画家を目指すことに猛反対していた父も、その熱意にほだされたのか黙認するようになっていた。しかし、今度はニューネンの地元女性と交際をはじめ、両家の家族から猛反対を受けることになる。あげく女性が服毒自殺未遂を起こし、落ち着きそうになった父との関係も再炎上することとなった。

■ 1885年(32歳)

旅立ち

じゃがいもを食べる人々

3月26日、フィンセントの父が急逝。その直後の4月~5月、初期の代表作のひとつである「じゃがいもを食べる人々」を描き上げた。後に、テオは「暗すぎる」と感じたようだし、確かにとても暗い。しかしフィンセントは、手紙の中で、ほとんど白を使わずに描いたその絵をとても気に入っているように書いている。父の死後、家族や父の同僚との関係など煩わしい事もあっただろうし、更には、この絵を完成させたことで次なる焦燥感に突き動かされたのかもしれない。この年の11月、ベルギーのアントワープに旅立ち、生涯オランダに戻ることはなかった。

■ 1886年(33歳)

パリショック!

浮世絵インスパイヤー

1月アントワープ王立美術アカデミーに学ぶが、あまり得るところが無かったようである。しかし日本の浮世絵と出会い、その構図、色使いや輪郭線に強い影響を受けた。テオからの手紙の中でパリの印象派のことを知り、焦燥感に突き動かされたのか2月の末に突然パリに向かい、テオのアパートに転がりこんだ。当然テオは手狭になり、フィンセントを連れてモンマルトルのルピック通りに引っ越した。そして時代の再先端を走る印象派画家達の作品を見て相当ショックを受けることになる。「明るい色彩を駆使するその筆触、点描の数々。オランダで自分が制作してきた作品が如何に時代遅れか?」を思い知らされた。またアントワープで知った日本の浮世絵は、パリにおいて1867年万博出展以来、多くの画家達に影響を与えていた。フィンセントもその仲間に加わり、左の「栄泉」(中央) 「広重」(左右)インスパイヤを三点描いている。

■ 1887年(34歳)

出会い

ゴーガンの肖像

前年、画家フェルナン・コルモンのアトリエに登録し3ヶ月間通ったが、ここでも絵的な学びはあまりなかったようだ。しかし画友たちとの交流、浮世絵を学べたことが大きな収穫となった。また、テオと浮世絵をコレクションし、モンマルトルのカフェ「ル・タンブラン」で、それらを展示した。コレクションの枚数は300枚を超えるものになった。仲間の多くの展覧会も見に行ったし、ロートレック、ベルナールなど近しい画家でグループ展を開催した。この時にゴーガンと知り合ったようである。左は、後にゴッホが描いたゴーガンの肖像(1888年12月)である。

■ 1888年(35歳)

新たな一歩、そして別れ

ひまわり

約2年間、テオとのパリ暮らしに行き詰まりを感じたのか、日差しの弱い冬の都会に疲れたのか、1888年2月、フィンセントはパリを離れることにした。「大好きな浮世絵」「光に満ちた日本」そこに相当するであろう光の地、南仏のアルルをめざした。とても良い場所だった。5月には、当初の目的でもあった「画家の共同体」そのアイデアを実現すべく1階をアトリエにした部屋を借りた。壁が黄色く塗られていたので「黄色い家」と名付けた。画家仲間を歓迎するために、夏には満開の「ひまわり」を描いた。左はその一枚。ようやくゴーガンが10月にやってきたが、共同生活は2ヶ月で終焉を迎える。ゴーガンはパリに戻り、ゴッホは左耳を切断し入院した。

■ 1889年(36歳)

虚 ろ

糸杉のある麦畑

1月、アルルの病院を退院し制作活動を再開する。しかし2月、年末の「耳切事件」以来、異常者とみなされており、近隣住民からの嘆願で病院へ強制収容されることなった。そこの主治医にサン・レミ・ド・プロヴァンスにある精神病療養院を斡旋された。一方、テオは4月に結婚。5月、フィンセントはアルルを離れ、くだんの療養院に自ら入院する。南仏に暮らした約15ヶ月間で、生の象徴「ひまわり」から墓地のシンボルである「糸杉」まで、300枚以上の絵を描いたと言われている。左もその一枚、「糸杉のある麦畑」(1889年)である。

■ 1890年(享年37歳)

光の彼方へ

木の根と幹

1月、ブリュッセルで開催された「20人会」展に出品されたフィンセントの「赤い葡萄畑」が売れた。生涯で初めてと言われている。パリの雑誌「メルキュール・ド・フランス」に好意的な評論がされ、いい意味で少し名が売れた。一方、テオとその奥さんヨーの間に、息子が生まれる。兄から名をもらい「フィンセント」と命名した。出産祝に、「花咲くアーモンドの枝」を幼少の命の象徴として描き、夫妻に贈った。フィンセントは5月に療養院をでてパリの弟夫妻のアパート経由でオーヴェール・シュル・オワーズに移動した。なぜその地かというと、テオが印象派の長老ピサロのから紹介された「ガシェ医師」が週3日程度そこで過ごしていたためだ。医師も絵が好きで、フィンセントの作品も好んでくれていた。 7月27日、突然、拳銃により腹部へ被弾したフィンセントが宿に戻る。7月29日永眠。自殺、他殺は諸説あり。7月30日、オーヴェール・シュル・オワーズの墓地に埋葬された。 フィンセントの絶筆については、長らくリサーチされたようである。ファン・ゴッホ美術館では、左の「木の根と幹」を最後の作品としており、2020年に描いた場所も特定されたようである。

■ 1891年(弟テオ、享年33歳)

約半年後ユトレヒトの病院で死去。